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多様性と共通性(りんごの木セミナーより)

すっかり夏休みモードです。昨日久々に外作業に出たら吹き出る汗。

日々農作業、外仕事を継続されてる方には頭が下がります。

頭はそんなに使わなかったですが、あちこちの感覚が刺激されて、ほんと家にいるだけだとどんどん怠惰になっていくなと思います。それもたまには必要な時間なんですけどね。

 

夏の恒例「りんごの木オンラインセミナー」を見終えました。

さとのたねではお母さん、スタッフにも一緒にどうですか?と声掛けして見たい方に視聴してもらっています。

何年か前までは数人で一緒に横浜まで行って大きなホールで色んな方の話を聞いて、スタッフやお母さんたちと一杯飲んで話して帰るのが楽しみでもありました。

今はコロナで3年間オンライン。今まで子供を置いて行けないなんて方も気軽にお家で好きな時間に各講師陣のお話が聴けるのだからそれはそれでありがたい仕組みです。

そうはいっても子供の寝かしつけがあればなかなかという方もいるかもしれませんね。

 

今年は「主体性」への問いに対する大豆生田先生の話がなんだかこれでもかと熱かったのと、ぐうたら村の小西貴士さんと生命誌研究者の中村桂子さんの話からハッとさせられることが多かったです。

(気になる方は調べてみてください。色んなところで活躍されてる方々です。)

 

私はずっと感覚優位なところがあって、練ってる時間がものすごく長い割にはどうにもこうにも言語化まで至らないみたいなことっていっぱいあるんですが、もたもたしてるうちに「そうそうこういう感覚!」という発見の連続でした。

 

言葉って難しくって、「主体性」も、「多様性」も、「ありのまま」も単語になると、すごく独り歩きしやすくて、単語そのものが切り分けられて捉えられることが多いんですよね。

 

それでなにかこうその人その人のアンバラスさと共に使われたりすることに違和感がありました。

 

例えば共通性、協同性を自らの体験のなかでうまく消化されていなければ、それらを極端に疎んだり、多様で、自由で、私的で、個性をもつことを主張しがちになったり、、

自分の心を守るための標語になっていたり、、

 

言い換えてみれば誰しももつ自分の中の軌跡によって、その求めるものの比重が違ってくるという感じかしら?

 

それで、小西さんや中村さんが、

「今は多様性ばかりが強調されるけど、その多様である生き物にはすべて共通性があるってことに気づける人がどのくらいいるかしら」

と話していたのを聞いて、あ~その相互感覚!と思わずうなづいてしまいました。

「『みんな違っていい』は確かなんだけど、『みんなバラバラでは困るのよ』」

これをストレスなく受け取ることは、人によっては難しいかもしれません。

 

少し前に取りあげた「ママがいい!」という本にも「利他の心」というワードがたくさん出てきたのですが、それで思い出したことがありました。

昔、少林寺をやっていたころにこの言葉があったんです。

「利他共楽」という言葉で、本を読んでいてふっと思い出しました。

「自分も他者も共に生き、共に喜びを分かつ」という意味の仏教用語です。

のちに学生時代に出会う合気道にも似たような意味で「和合」という言葉があります。

 

違うことは大前提で、主体も大前提、でも、だからこそ共にある、

共にあるからこそ、主体も多様もあるという視点。

 

でも、みんな同じ、みんな一緒を求められきた私たちは、なかなか

「多様でありながら、協同的に生きる」という一見真逆のようなものが相互に存在することを受け入れがたかったり、葛藤を覚え偏ったり、目を背けたくなったりしてしまいます。

 

だから対話、なんでしょうけど。 

そもそもその対話だって一人でできないもの。

自分を持ちながら、協同的な姿勢があって相手への尊厳があって成り立つもの。

 

だからこそ、「もともとどんな生き物もみんな一つの細胞から生まれているのよ」という中村さんの投げかけこそ必要で、

その原理は生物の大元を見つめれば明らか、という尊い気づきをもらいました。

きっと太古の人たちはもっともっと自然や暮らしに根付いていたから、それを循環の一つとしてしなやかさをもって受け入れていたのかもしれないですね。

 

「共にある」ということが、どうしても「自分そのもの」と相反することのように重くしんどく聞こえがちな人は、子供や自然の中にどっぷりつかってみると違う視点が見えてくるような気がします。

主体も協同も切れ目なく繋がってることが子供たちを見ていると感じるし、自分を失うことでも恐れることでもないことに気づきます。

時間はかかりますが、浸かれば浸かるほど、いいリハビリになると思います。

私なんか情報過多になって頭でっかちになってくると、たいてい子供たちの営みのそばにいさせてもらい、やり直しさせてもらいます。

 

話は変わりますが、のやま組では子供の誕生日に好きな料理をお母さんにリクエストできる日なんですが、子供たちは自分のために、祝ってもらえるという感覚を飛び越していることが多いです。

 

Aは去年に引き続き「ねぎたまごを作りたい」と言いました。

それはAが去年はまった料理。それをみんなで作って食べたいと思ったんですね。

その時も嬉しかったんだけど、今年はもう一つ嬉しかった。

それは、4月から新しく2番組に入ってきてくれた子たちとも作って食べることができたから。

 

振り返りでAに話を聞くと、

「前はね、1番組のみんなで作ったでしょ。でも、2番組の子たちはまだ食べてなかったでしょ。それで、みんなとも一緒に作って食べられたことが嬉しかったの」と嬉しそうに話をしてくれました。

 

彼だけじゃなくて、ねぎを切る時にやるやると張り切る子、

たっぷりの卵を「まぜたーい」と手伝う子、

「うま~い」「おいし~い」とあちこちで上がる声。

 

Aの主体性は周りにいる一人一人の子供たちの主体性に支えられ、共鳴し、またA自身の喜びにつながっていきました。

 

分かち合うことへの喜び。

 

もちろん喜びだけじゃなくしんどさもひっくるめて、

困難さを超えていくときなんかはなおさらおもしろいです。

 

そういう世界が子供たちの中には日々繰り広げられています。

 

さとのたね

代表 岸本 梓