台風が過ぎ去り、今はすっかり日が差しています。雨の日も活動をするさとのたねですが、毎回その時、その時の状況によって判断を変えます。
台風が近づいているから休みね、ということはせず、予報から予測できる風向き、雨量、雲の流れ、発雷確率と、実際のフィールドであれば、どちら側から風が吹いて、どこだったら風の影響が少ないのか、森のどこだったら雨の影響が少ないのか、タープを立てる場所はどこが適しているのか、立てないほうがいいのか、フィールド内だったらどこが一番安全かを考えます。
昨日の活動を中止にするとしたら、夕方の予報が午前に来てたらでしょうね。
子供も自然もいつだって同じ時がないです。刻々と変化します。
そこにアンテナを張り続けることはまあ簡単なことではないです。
10年の経験があるとはいえ、参考にはしますが、経験にも頼りすぎないこと。
私からすれば、テレビの情報は過剰すぎる、だけど、万が一はあり得るので、予報も情報も侮りすぎない。
一方で、実際の現場の状況は毎回違う、というのが経験値。
だから、経験があるからといって、状況をあまくも見ないし、不安がりすぎもしないというとこでしょうか。
ちょっと危険なことって、火にしても、刃物の扱いにしても、こういうイレギュラーな状況判断にしても、やらなければやらないほど、勘は鈍るし、やればやれほど、勘と実践がマッチしていくような気がします。
多分、雨の日に外で遊ぶとか、子どもに包丁使わせるとかって経験値0だったらめちゃくちゃ怖いはずなんです。
私でも、受け持つ子たちの今年初の大雨とか、今年初の調理とかって、反応がわからない分やっぱり段階を踏まないと怖さがあります。
でも、怖さを怖いからといってそのままにしないのは、その先の子供たちの姿を知っているから。そして、安全が保たれるできうる限りの準備と仮説を何通りもたて、大丈夫に持っていくわけです。
もちろん、いつでも完璧なことはなくて、見通しの甘さに気づき、やり直しながらです。
この10年も1年目が必ずあったように、どこかで0から1に増やしていくしかないんです。
増やしていく中で、子供は私たちとは違うとこを見てるってことにだんだん気づいていきます。
昨日もね、今年初の本降りを体験した1,2歳児たちを見に行ったら、みんなずぶ濡れになりながら嬉々とした顔してるのね。
途中泣いたり、着替えがうまくいかなかったりもあったでしょうけど、お迎え間際の子供たちは、不思議と凛とした顔つきでしたね。
自然との親和性が高いのは、特に1,2歳の子たちだなと思います。
大人と違うのは、彼らには予測して怖がるとか、雨だから不快だなあと先を考えるということがないことでしょうか。
だから、大人のほうである程度安全の見通しが立てられなければ活動できないのだけど、雨だろうが、晴だろうがあまり感覚的に変わらないのが子供たち。
どんな天気でも、自分が不快になった瞬間だけが不快、なんです。
だから、子供たちと一緒に過ごす時に、大人が感じて不安を先に口走らないように、刷り込みを起こさないようには気をつけます。どの瞬間に何を感じるのかはその子次第。
まだ何も感じ取ってもいないのに、気持ちを決定づけたら彼らに失礼ですから。
その後、3,4,5歳児が活動していたフィールドへ行くと、こちらはこちらでずぶ濡れで泥の水たまりにウオータースライダーしたり、水たまりの上でトランポリン状態の子たちもいれば、頑丈な東屋の中でじっくり砂遊びや木工の子たちも。
こっちはこっちで雨を堪能しきってる子供たち。
大人が悪天候と思うこの状況で遊び(探究活動)を生み出す段階にいってる人たちの目は一層キラキラなわけです。
「感じる」というとこから、自らの意思で、手で、変化させ、変化し、試行し、楽しむ、という育ち。
本来人間はそう育ちたいものなのではないかしらと、思わずにはいられません。
何を困難として感じるのか、何を喜びと感じるのかは子供次第。
大人が発する前に子供はどうかなって心の声を聴きたいものです。
とはいえ、うちはたまたま園舎がない保育をやってるだけで、園舎があったらあったでいいなと思います。今よりフレキシブルさと勘はなくなりそうな気がしますが、どんどんお年寄りになっていくわけですから、この先、縁側のある外と地続きの園舎があったら頑張れそうな気がするよね、とは思いますけどね(笑)
さとのたね
代表 岸本 梓