暖冬と思っていた今年も、もう春がすぐそこまできているという時に、極寒の日が続きました。
さと組年少児のある日の散歩。
雨散歩のち、駄菓子屋&仲間のおうちへ。
森の木々が傘代わり、
心弾ませながら歩く森。
水溜まりに歓喜したのち、
一人が長靴の中の水の冷たさに気づき、
「お母さーん」と泣く。
それでも歩み出す木々の傘のない住宅街。
泣かない子も、
おしゃべりしている子も、
寒くないわけじゃない。
揺らぐ気持ちを手をつないで分け合う。
カッパは着ない、手はとらないと自分で決めてひた歩く。
先頭の子たちの、
「駄菓子屋空いてた!」
の声に、後ろを歩いていた子たちの表情がぱっと変わったことを見逃さなかったお母さん当番。
2個ずつお菓子を選び、順番に店のおじちゃんの前に差し出す。
「○○円」と言われる度に、一人一人に小銭を握らせる。
どの子も、小さな手が小刻みに震えている。
それでも子供たちは、しっかりとお菓子を受け取り、
「ありがとう」と店をあとにする。
次に目指すは、Tの家。
Tが凜とした表情で道案内。
「あったか~い」「ほっとする~」
子供も大人もおんなじ気持ちになって心が緩む。
圧倒的な寒暖さが、人と家の温もりを倍増させる。
いつも思う。
私一人じゃできない、
私一人じゃ気づかない、
子供たちがいて、お母さんたちがいて、
だから、感じること、気づくこと、分かち合うことができる。
ありがとう。
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こういう日ほど自然の中で子供たちと過ごすことの意味を知ります。
子供たちは、
自分ではどうにもならない厳しい事象に、
抗うでもなく、ただ受け身になるでもなく。
1歳2歳3歳の間は、自分が感じたままに、
表現し、受け止めてもらい、
その間にたくさんの感覚が研ぎ澄まされて。
4歳にもなれば、存分に心揺らした期間をバネに、いつしか、自分の中で葛藤を抱えられるようになっています。
大人がそのことに気づくのは、ようやく3年経ってのこと。
子供は簡単に育たないし、
親も簡単に気づかない。
「葛藤を抱えられる」というそれは、
泣きたくなるときに、
そっと寄り添い、寄り添われ、
「どんな気持ちをもった私も大丈夫」を、
仲間と積み重ねた先に、
いつしか、
「踏ん張り時に踏ん張れる自分」になっていること。
「誰にも頼らずただ一人で我慢する」
ことと、
自分も仲間も信頼した上での「葛藤を抱える」
は、
「孤立」と「自律」の違い。
だから、
晴れと雨、
快と不快、
暖と寒、
明と暗、
温もりと厳しさ、
は、どっちも大事。
その子の芯は、自然発生的なコントラストによって確かなものになっていくような気がします。
自分がやりたいこと、望んだことを自己決定できることはもちろん大事だけど、
生きていれば、天災や死など、自分の意志とは関係なく、コントロールが効かない自然事象に出会うことが必ずあります。
人間がすべてではないこと。
自分がすべてではないこと。
自然と共に生きる子供たちは、
そのバランス感の中にいるような気がします。
そして、
「葛藤を抱える、
しんどい時は荷物を分け合う」
時を共に過ごしたのやま組年長児の子たちが、
来週にはいよいよ卒業です。
さとのたね
代表 岸本 梓