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「ママはあらし」

先週末は、山村留学中の娘のもとに行ってきました。今年の北海道は暖かいと思っていましたが、やはり寒暖差がある土地。その日は風もあって特別に寒く、お天気はいいけど、冬さながらの運動会でした。でも、子供たちが互いに声を掛け合う姿に、先生たちが楽しそうな姿に、保護者の声援が間近で聞こえる様子に気づいたら心は温かくなっていました。

ところ変わればで、午後からはPTA主催のバーベキュー。

皆さん手慣れた様子でじゃんじゃん焼いていきます。北海道は、焼き肉と言えば、ジンギスカンだそうで、その手際のよさに圧倒されながらおいしくいただきました。もう一つ驚いたのは、肉を焼いている大人が先生なのか、保護者なのかわからないこと。

先生も保護者も関係なく動ける人が動いていたこと。だから校長先生、教頭先生が率先して肉を焼いてるなんてことは、どうやら当たり前な風景のようです。

でもよく考えたら、P・T・Aなんだから、そうか教職員も入ってるよね、と腑に落ちてしまいました。そこにいる人達みんなが当事者で、声を掛け合いながら動いている。なかなかこちらでは目にしない大人の姿に感動と共に、子供たちがそういう大人の背中を当たり前に見られるっていいなって思いました。空気感で伝わっているものがあるでしょうから。

翌日は片道4時間のドライブ。野生のラッコを見てきました。霧多布、釧路まで足を延ばし、往復8時間の旅でも全く疲れがないのが不思議。結局いつも、羽田から千葉間の電車の中が一番疲労するのはなぜなのかしら?

娘ともたくさん話ができて幸せなひと時でした。たくさんの方に見守られている安心感、ほんとにありがたいです。

 

話は変わって、新しい年度になりましたが、今年は1歳児の入会がまだ0。

なかなか厳しいスタートです。広報のお母さんたちはじめ、あの手この手で動いています。指示を待たずにできそうなことはやってみようと自分で考え、動くお母さんたち。

悲壮感なく、チャレンジを楽しんでいる姿にこちらも励まされます。

最近は図書館カフェで提供するお茶も一工夫。

普段自然の中で過ごしている私たちだからこそ、のアイディアで盛り上げています。これもきっと自分ごと、になっているから。

お母さんが自分らしく人と繋がって生きている姿をみると嬉しくなります。

 

子どもたちはというと、そんなお母さんたちの背中を感じながら、4,5月は新しい学年での関係作り。

とはいえ子どもは関係作りしようなんてことは思っていないわけで、始まってみて、あれ、なんだか今までとちがうぞと気づくわけです。

のやま組は年中から年長へ、年少から年中へあがった子たちの2学年で毎日過ごすことになり、今年は新しいメンバーも入ったことで色々と事が起きます。

2歳児クラスの8人それぞれが自己主張の時期。ぶつかりあいの多い5月でした。

「あなたどういう子?」「どういう感じ?」という言葉にならないやり取りは、かわいさだけでは片づけられないときもあります。今は、寄ると触るとゴングが鳴る、という感じ(笑)

3歳児がいまのところ一番ゆったりしていましたかね。

この対立、ごちゃごちゃ、大人になると避けたくなる私たちですが、交通整理はしたとしても、ジャッジや決めつけで、子供の感情に蓋をさせてはいけないと思っています。

その子その子の背景を拾いながら、どう感じているかをできるだけ言葉にのせるようにします。

あとは、じゃあ次はどうしたらいいかね?というところは、子供たちが考えるところ。

その日に即日解決、一発で終わり、なんてことはないですから、時間をかけてお付き合いします。

でも、小さいうちから子供の気持ちなんてお構いなしに即日解決、大人がジャッジ、してる場面て多いですよね。

そのたびに子供は自分の気持ちに蓋をすることになります。

気持ちを抑え込まれてしまうと、「自分で考える」にはどうやっても繋がっていきません。

 

自分で考えることの幸せをどうか奪わないでほしい。

人の自由を必要以上に奪ったり、傷つけたり、そういう行動に対してNOをはっきり伝えることは必要だけど、イライラに任せたただの自己都合のジャッジを、子供は簡単に見抜きます。

この人、聴かない大人だな、自分のことしか考えてないなって。

目の前にいる子どもは、大人の鏡。

私も時々失敗して見透かされ何度もやり直しさせてもらっています。

せめてどうしたかったか心の声を聴いた上で、想像した上で、行動はNOだよって伝えたいものです。

 

子どもたちは大人が思ってる以上に大人のことを感じています。

先日おもしろいなと思った3歳児の会話があって、3人がお母さんの話を始めたのね。

 

「うちのママは、笑っておっぱい飲ませてくれるんだ」とY。

「へ~」とMとH。

すると、

「ママはあらし」とH。

「あらし?」(二人はちょっとよくわからないという表情)

「そう、ママはあらし」

 

私が、「ママはあらしってどういうこと?」と聞くと、

Hが、「それはね、大変こと嫌なことがい~ぱいあるってこと」

 

お~なるほど~

3歳児の会話はそんなこと感じてたの?と驚くべき時があります。

私はそういう時は、神秘的な出会いだと思って、神様が話してるくらいの気持ちで耳を傾けます。

 

でも、もっと驚いたのはその表現ではなく、子供の受け止め方。

「ママはあらし」

だけど、それは、「私たちを育てるために毎日忙しくって赤ちゃんもいるし大変なの」

「いやになるときもあるしそれがママなの」

端的な言葉を訳すと、こんな感じでしょうか。

というのも、Hの中に、だから悲しい、という影がなかったから。

 

続いてMが「そうかあ、じゃあしぜんてことだね」と。

私はまたえっ?となって、

「え?しぜんなの?」とHに聞き返しました。

 

「そう、あらしはしぜん。おこるときもあるってこと。」

「ね~」とM。

 

恐るべし3歳児です。

子供たちがどれだけ母という存在をまるっと受け止めているかわかるでしょうか?

いいママになってほしいわけじゃないのよ、子供は。

大人のほうばかりが、どうか私をてこずらせないでって、いい子になることを押し付けていませんか?

 

この言葉足らずの、でも、どこか哲学じみた会話がぽっと出てくるのって、4歳になるくらいの時で、まさに旬のごとくなのです。

こういう場面に出くわすと私は何か宝物をみせてもらったそんな気分になります。

お母さんたちもさと組(3歳児クラス)になると、もちろんそういう場面にでくわすことがあって、「あ~」と言葉にならない感嘆の声が出る時があります。

たね1(1歳児)、たね2(2歳児)では見えなかった世界、1年2年のごちゃごちゃした積み重ねの先が、さあーっと開けていく感じ。

「子どもと共に生きる」その価値を実感するときでもあります。

それは母の芯にしみわたり、あんなに不安や心配だった子育てのなにか軸を得るような瞬間。

 

だからね、時代には逆行してるのかもしれませんが、子供たちが全身全霊で、お母さんへたくさんのメッセージを送り続けている宝のような時期は、自分の目で見て、自分の心で感じておいたほうがいいと私は思ってしまいます。

子ども(相手)の声を聴くってどういうことなのか、

「人生の根っこを育てる」ってなんなのか、

一番身近にいる子どもたちが、不思議と指し示しているように思います。

 

彼らは、時間、お金、評価、効率、世間体、そういうものに追われてないから、私たちが忘れかけて、後回しにしてるものを、「これだよ、ここをみてよ」っていつも背中を押してくれます。

そこに気づける大人を少しでも増やしたいですね。

 

さとのたね

代表 岸本 梓