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フルーツポンチの深掘り

秋祭りが今年も終わり、それぞれがそれぞれの持ちたい、持つと決めた企画で、自分なりの、自分たちなりの工夫を活かし、場を作っていく過程は、子供も大人も見事だったなと思います。

 

私が先頭を切らなくても成り立つ祭。ここ数年そのことを実感します。

私たちには沁みついた一定の価値観(「違いに気づいたときに合わせていく」=ミックスジュース)みたいなものがあって、まずはそこを自覚していくことでした。

今年は澤田さんの「フルーツポンチのように」という共通イメージがあったので、立ち返りやすかったのもあります。

そう思うと具体を表す言葉って大事ですね。

 

「みんな違ってみんないい、やりたくないことはやらなくていい」

額面通りにとる人は、フルーツポンチの器に入ってなかったりします。

葛藤もなしに極論で受けとるとそうなっちゃう。

合わせるか、やらないか、

 

そういうことじゃなくって、どんなふうに感じるかは自由だけど、それぞれの素材が活きたおいしいフルーツポンチ、おいしい芋煮になるにはどうしたらいいか?

を考える過程が大事だったんですね。

 

ついついミックスジュースが顔を出します。

嫌われたくないし、

合わせたほうが楽だし、

自分を押さえたほうが丸く収まる?

合わせたほうが一体感が出る気がする?

絆を感じられる?

 

 

ついついフルーツポンチから飛び出しちゃって自分本位が顔を出します。

やりたくないならやらなくていいよね、

やりたい人がやればいいじゃん、

 

というふうに。

何を思っても自由。

感じ方は違って当然。

 

じゃあどうするか、どういうフルーツポンチにするんだっけ?

合わせるか、放棄するか、どちらかでない答えを探っていく過程には必ず葛藤が起こります。

 

それでも、「あれ?今ミックスジュースに寄ってない?」「どうしたらおいしいフルーツポンチになるかな」そう投げかけ考え続けることが、お母さんたちの中で自然発生的に起こっていたこと。

そうすると「自分で考える」ことが周りに波のように伝わっていきます。

一人、また一人と自然にリンクしていきます。

 

同質性を求められ、思考停止の状態で、やりたくないことを長くやってきた私たちは葛藤を抱えるのが子供よりへたくそです。

自分でやろうと決めたこと、やりたいと思ったことに対しても、難しいこと、面倒くさいことにぶちあたると、葛藤そのものを否定する信号をだして、これは楽しくないからちがう、あれも楽しくないからちがった、とやっちゃいがち。

何事もおもしろくする工夫は必要だけど、葛藤そのものはどうあがいたって軽く楽しいものにはなりえないですから。

 

だから、乳幼児期に趣くままにやりたいことや、自分でやってみようと決めたことをやる中で葛藤する、それを横にいる人たちに肯定してもらうってことがどれだけ大事かって思います。

2,3歳の自己主張期に存分に自我を発揮し受け止められ、4歳を迎える子たちの葛藤を抱える様は、ほんとに見事です。

 

大人も、自分の本音は否定しなくていいんです。

そのあとに、気持ちと行動の間で葛藤したときには、自分やるじゃん、でいいんです。

そのあとに、何かに合わせるでもなく、放棄するでもない方法を一緒に考えませんか。

 

自分で立つ、考える。

だけど、困ったときは頼る、気づいているなら声をかける。

 

気づかれていなくても勝手に拗ねない。

だけど、一人にさせない。(一人になりたい場合は除く)

 

相反するような状態の中に、なにかを見出せるように。

 

答えを与える・もらうのではなく、その人自身が自分の中に問いを立て、考えられるように。

 

私自身もたくさんの葛藤や稔りを感じた秋祭りでした。

ほんとびっくりするくらいサービスなしのさとたねです。一人一人の持ち味にただただ感謝です。

 

さとのたね

代表 岸本 梓